流祖 辻月丹

流祖 辻月丹
辻月丹資茂 つじ げったん すけもち

二代目山口卜真齋に山口一刀流を学び、免許皆伝を得た。
兵内は吸江寺の石潭禅師について参禅した。月丹32歳の時、禅師は遷化されたが、その後も第二世の神州和尚の許に通う。兵内45歳の時、豁然と悟りを開いた。
神州和尚は師・石潭禅師の名で次の偈(げ)を与えた。

一法実無外 乾坤得一貞
(一法は実に外になし 乾坤に一貞を得)
吹毛方納密 動着則光清
(吹毛方に密に納む 動着すれば即ち光清し)

この偈より、流名を無外真伝兵道とし、名を兵内から月丹資茂(すけもち)とした。
伝書に「無外真伝の剣法は禅理をもって教導致す処…」とある通り、剣禅一致の流派である。
月丹は幕臣の酒井忠挙、林大学頭等の強い推薦により第五代および第六代将軍に御目見得する寸前までいったことがある。諸事情により御目見得は適わなかったが、一介の浪人剣士を将軍御目見得に推挙することは破格である。これは剣者としてだけではなく、禅者、学者として多くの大名と対等に語ることができ、またその大名達を剣の弟子とした月丹ならではのことであろう。
最盛期には一万石以上の大名30数家、直参150人あまり、陪臣にいたっては1000人以上もの門人が集まった。酒井家、山内家などからは師範役に迎えたいとの交渉もあったが、月丹は一武道者としての修行を希望し、甥の右平太を酒井家に、山内家には養子の記摩多を推挙した。
この他にも各地に多くの指導者を配し、無外流は日本全国に広まった。土佐藩では上士の学ぶ剣法とされ、幕末に活躍した「四賢侯」の一人、山内容堂もこの流儀を学んでいる。


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